歴史 鎌倉時代
これまでの大井手用水路
もともとみかのはらは、水利の悪いところで稲作には向いていなかった・・・
そこに現れたのが「慈心上人」で、荒野のみかのはらに暮らす人々に心を寄せ自ら用水路計画を立てた。
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覚真は俗名を藤原長房といい、後鳥羽上皇に近持し、 参議正三位兼民部卿の地位にあった人である。 1210年、海住山寺の貞慶のもとで出家、師のあとを継ぎ 1243年死去 |
計画を聞いた人々は峡谷の岩盤に水路を通すなどは狂人のしわざだとあざ笑ったという、
だが子孫のためだと説いて回り、20年余りに及ぶ難工事の末に完成させたのである。
工事中、昼は錫杖をもって見回り、毎夜御堂で工事完成祈願の御姿に村民は心を打たれ、
想いを新たにして険しい山肌に挑み、岩盤を穿ったという。
上人が言った言葉に
「土地が豊かになることは、今の皆の喜びではなく、子や孫のため」
と村人を説得して歩いた
険しい井手山 |
大井手水路の完成にあたり、上人は用水路の維持管理に 16 人の「井手守」の制を定め、
以後その子孫が中心となって任に当っている。用水の恩恵に浴する村民は、中世から今日に至るまで
海住山寺と深いつながりを持ちながら「井手祭」という用水慣行を継承してきた。
行事は毎年正月の吉日に井手守が集まり、用水取入口の「旧井手枕」脇の大岩前に三重の棚を設け、
御幣や白餅、神酒を供えて上人の徳を讃える。また正月 16 日の慈心の命日供養にはじまり
10 月 20 日の報恩講に終る行事をつづけています。
山城大水害で傷を負った用水路跡 |
昭和 28 年、南山城地方に大水害が襲い、井手枕と右岸水路が流失した。
復旧にあたり井堰を200bほど下流に新設し、コンクリート堰に替えた。さらに平成5年に大補修を行ったが、
大井手水路の基本的な形は鎌倉期の遺構をそのまま受けついでいる。
幹線水路は、枕(堰)と末端の分水施設(千本杭)までの高低差はわずか5.5bで、
勾配1250分の1の土木工事は現代の技術でも難かしい。
それを上人は夜にちょうちんを一定間隔に並べ光を見て水が流れるルートを探したといわれる、
今でも変える必要のない大井手施設の設計計画は、当時の技術水準の高さを物語っている。
まさに慈心上人様様である!
海住山寺 上人様? |
海住山寺、墓地にある 慈心上人のお墓 |
参考資料「加茂町の歴史と文化」